近況ファイル
2000年4月〜11月分

 

編集者からの緊急電

          いま角川春樹事務所の担当編集者から電話がありました。
          まったく知らなかったけれども、昨日、角川春樹事務所の
          角川春樹社長に実刑判決が出たそうです。
          収監まで一週間ほどあるので、いま引き継ぎ中とのこと。
          会社自体はこれまでどおりに仕事を続けますとのことでした。
          わたしのつぎの書き下ろしは、角川春樹事務所との約束です。
          ううむ、と唸って、言葉が出てきません。

          角川氏の編集者としての功績は多々挙げられると思いますが、
          わたしにとってはなによりもまず
          マルティン・ベック・シリーズを日本に紹介したひと、です。
          
          あのようなラディカルな反・警察小説を書いてみたい、というのが
          角川社長との打ち合わせでわたしが口にしたことでした。
          ほんとうなら今年初めには書き出しているはずだったのですが、ううむ。
          電話で知らされて、ちょっと動揺しています。
                                      00/11/02 


          

こんなところに出ています

          「トヨタ GM 巨人たちの握手」の解説
          佐藤正明、文春文庫、00年11月10日刊行

                                      00/11/02

冒険作家クラブ・パーティに出席

          上京中、ちょうど冒険作家クラブのパーティがありました。
          例年はホテルが会場になるのだけど、今年は銀座のライブハウスが
          会場でした。少し参加者が少なかったかな。
          今回の幹事は、今野敏さん。このところ、今野敏さんと斉藤純さんが、
          いつもこの手のイベントの裏方を勤めてくれている印象があります。
          ご苦労さま。
          恒例のビンゴゲームは、一等賞品がデジタルカメラ。
          かなり期待してのぞみましたが、鈴木輝一郎さんが獲得です。
          たぶん鈴木さんは、早速ホームページの作成に
          あのカメラを使っていることでしょう。
          それにしても、ふとまわりの顔を見渡すと、
          小生はもう新人でも若手でもなくなっているのですね。

          装丁家の荒川じんぺいさんと話をしていて、少しうらやましかったこと。
          じんぺいさんは八ヶ岳に別荘を持ち、その生活のことを文章にも
          しているのですが、乗馬もかなり達者だったとは、じつは初めて知りました。
          聞くと、昨年、NHK「徳川三代」関が原の合戦シーンの撮影に、
          騎馬武者のエキストラとして参加、出演したとのこと。
          この撮影については「乗馬ライフ」誌上でエキストラ募集が行われましたが、
          条件としてはたしか、乗馬経験三百鞍以上、襲歩(ギャロップ)ができること、
          というものだったはず。
          つまりじんぺいさんは、甲冑をつけて、襲歩で画面を疾駆したわけです。
          あの風貌ですし、あの立派なおひげですから、
          「天と地と」の室田日出男ふうの武将の役だったのでしょう。
          大写しにはなってはいないと思いますが、それにしてもたいしたものです。

                                               2000年10月19日

夢の図書館について語った

          地元でおこなわれた「全道図書館長会議」なるもので講演しました。
          (話すのは苦手、と逃げ回ってもいられない年齢になりつつあるので)
          テーマは「本棚のすきまの秘密」。
          本とのつきあいかたと、自分の図書館体験、古書店体験。
          さらに、自分はなぜ公立の図書館を使わなくなったか、その理由。
          最後には、ボルヘスふうの夢の図書館の話。
          テーマ自体は、自分でも語りたいことがいくらでもあることなので、
          それなりに楽しく話せたのですが、お役人たちとこのような仕事をしたあとって、
          なぜか徒労感が大きい。
          どうしてなんでしょう。
                                        2000年10月12日

 

歴史小説執筆の恐怖の部分


          長い時代にわたる歴史小説を書こうとすると、とうていその時代に関する
          史料全部に目を通せるはずもなく、
          疑問点はそのままの見切り発車はやむをえません。
          でも、いま「榎本武揚」を書いていて、脱稿直前、きわどかった、というタイミングで
          新しい資料を読みました。

          「脱藩大名の戊辰戦争」中村彰彦、中公新書
          9月25日に出たばかりです。

          取り上げられているのは、上総・請西藩主の林忠崇。
          彼は朝廷の徳川処分に憤慨し、藩主の座を捨てて戊辰戦争に参加しますが、
          小生の手持ちの戊辰戦争関連の基本文献等では、
          榎本武揚の援助を受けて小田原に行き、そのあと上総にもどってきて、
          そこから先がよくわからなくなる。
          大雑把な人名事典等の記述では、
          戊辰戦争の終盤まで戦い続けたようなのですが

          本書を呼んで、不分明だった部分がやっとわかりました。
          請西藩隊は小部隊だったので、旧幕臣の遊撃隊に合流、
          これに編入されてしまったため、
          たとえば「なんとか戦の参加部隊」といったリストから漏れて、
          個々の戦闘記録等からは、
          請西藩兵隊と林忠崇の名は見当たらなくなってしまうのです。

          この研究書によれば、林忠崇は明治元年の九月四日、榎本武揚とも
          仙台で会見しています(榎本武揚側の記録には見えなかった事実)。
          ただし彼は、蝦夷が島行きには加わりませんでした。

          この本がいま出ていなければ、林忠崇のその後についてはまったく触れないまま
          書き終えてしまうところだった。冷や汗ものです。
          
                                        2000年10月8日

こんなところに出ています

          「アミューズ」毎日新聞社、10月12日発売の
          「神田神保町・古書店街特集」、書店めぐり。
          
          「週刊文春」文芸春秋、10月12日発売(19日号)
          「立腹・抱腹」のページに短いエッセイ。
                                        2000年10月3日

ゴッホ観を変えてくれた二冊の本

          こんどのオランダ旅行には、取材以外にもうひとつの
          目的がありました。ゴッホの作品を、アムステルダムの
          ゴッホ美術館と、パリのオルセイ美術館で観てくることです。
          というのも、この半年のあいだに
          「ゴッホの遺言」「ゴッホの証明」(小林英樹、情報センター出版局)
          という二冊の本を読んで、
          自分のゴッホ観が変わったとさえ感じられたからでした。

          このふたつの著作の中で、小林英樹氏は、
          ゴッホにまつわるふたつの虚構に挑み、通説をひっくり返します。
          そのふたつの虚構とは
          1、ゴッホは正規の美術教育を受けなかったので、デッサンがでたらめ。
          2、ゴッホは精神錯乱の果てに自殺した。
          ということですが。

          小林氏はゴッホ作とされているふたつの作品
          (「アルルのゴッホの寝室」の本人スケッチ、とされるものと、
          「左ききの自画像」)
          が贋作であることを、実作者の視点から見事に解明し、
          その贋作が生まれた理由と、ほんとうの作者が誰かまでを、
          特定してみせます。その解明の手順は、上質の謎解き小説を
          読むような面白さです。
          結論として、ゴッホはけっしてデッサンのでたらめな画家ではないのでした。

          虚構の2については、小林氏はゴッホの書簡を丹念に読み込み、
          「ドービニの庭」と題された自殺直前の同じ構図の二枚の作品を
          精緻に比較・解読することで、「精神錯乱の果ての自殺」という通説を
          くつがえすのです。
          遺作となった「ドービニの庭」の絵からは、
          その直前に描かれた同じ庭の絵には
          描かれている黒猫が消えています。足跡だけを残して。
          黒猫が消えた、その意味の中に、自殺の真相もあるのでした。
          この解明を叙述した部分では、正直なところ涙が出てきます。
          ゴッホは、自分の愛する者たちのいる平和な「庭」から、
          ひとつの決意で、静かに立ち去ったのです(というのが、
          小林氏の解釈です)。

          というわけで、オランダには取材でも行かねばならぬ、ゴッホもある、
          と、オランダ行き(ついでにパリにまわる)を決めた次第でした。

          ついでに書きますと、高校時代に「ゴッホの手紙」(小林秀雄、岩波新書)を
          読み、読後この本を床に叩きつけた記憶があります。
          著者がこの本を書いた意図のあさましさが透けて見えたことと、
          ゴッホの書簡につけられた解説の愚劣さに、生意気だった高校生は、
          憤慨したのでした。
          自分がゴッホの最大の理解者、とでも言いたげなあの尊大な文体に
          がまんがならなかったのかもしれません。
          しかし、自分のこれまでのゴッホ観には、あの新書も少なからず
          影響したような気もして、これはなんともくやしい。
          あんな本を読んでいなければ、もっと虚心にゴッホの作品を見つめ、
          自分の感動の理由を把握できていたでしょうに。
                                        2000年9月30日
        

海洋国家の誇り、オランダ海洋博物館

          『榎本武揚』(仮題)の最終取材で、オランダに行ってきました。
          アムステルダムでは、オランダ海洋博物館という施設で
          開陽丸についての、日本では手に入らない資料を探したのですが、
          この博物館での体験はうれしいものでした。

          船の名前をコンピュータに打ち込むと、たちまち
          その船についての資料がずらずらと挙がってくる。
          検索精度をさらに高めるためには、
          建造の年代と造船所の名がわかっているとよいとのことでした。
          同じ名の船がいくつもあるからなのでしょう。
          開陽丸は、一発で出ました。
          博物館の学芸員に、
          世界中の船についてこれが可能なのか、と訊いたところ、
          博物館になんらかの記録があるか、蔵書中に記述がある船であれば、
          データベースは完全にできているとのこと。
          図面や画像についても、どんな資料に掲載されているか、
          オリジナルがどこにあるかがわかる、とのことでした。

          学芸員は、こんなものもあるが、と、
          開陽丸が日本に回航されたときの航海日誌、
          それに開陽丸の建造日誌のオリジナルも出してきてくれました。
          オランダ語が読めるわけではないのですが
          本物に触れたというだけで感激でした。
          開陽丸が、いっそう身近な記述の対象となったように感じます。

          オランダ海洋博物館、海洋国家オランダにふさわしい、
          素晴らしい博物館でした。
                                         2000年9月13日

野生動物保護センターでボランティア講師


          仕事場の近くに、野生動物保護センターという施設があります。
          北海道でもただ一カ所、保護を必要とする野生動物を預かり
          傷を治したうえで、もう一度野生に帰してやるための施設です。
          この施設が毎夏、野生動物保護に関心のあるひとを対象に、
          野生動物保護セミナーという研修を実施しています。

          わたしはこの夏、このセミナーでボランティアの講師をつとめました。
          講義のタイトルは「北海道東部地方の自然とわたし」
          全国から集まってくる、主に獣医さんの卵を相手にして、
          一週間に一度、話したのですが、きょうが最終日。
          とくべつ自然や野生動物について知識があるわけではありませんが
          これまでに三度行っている南千島の自然については、
          多少、情報量のある話ができたかなと思います。

          「知床・国後・択捉を世界自然遺産に」という持論も、
          大いに語らせてもらいました。
          いまプーチン大統領も来日中ですが、
          これらの土地に、自然愛好家や野生動物好きが、
          もっと自由に行き来できるよう
          取り決めなり、協定なりを結んでほしいものです。
          主権問題の解決にはまだ時間がかかるにしても。
                                         2000年9月4日


池波志乃さんが文庫解説

          9月25日に、中央公論から「きょうも舗道にすれちがう」の文庫が出ます。
          もともとは同社の「GQ」誌に連載された掌編をまとめたもの。
          連載を開始したときには、その意識はなかったのですが
          終わってみると、「バブルの終わりと東京」とでもいうべきテーマで
          統一されたものになっていました。

          この文庫版の解説を誰にお願いするか、編集者と相談、
          編集者は、女性に書いていただきたいと提案し、小生も同意しました。
          すぐあがったのが、池波志乃さんの名前。
          女優さんとしてお仕事をするいっぽう、
          エンターテインメント小説の読み手として、活字メディアでも
          活躍されています。
          編集者が連絡したところ、ふたつ返事で引き受けてくださいました。
          女優さんに書いていただけるなんて、書評家や同業者に書いてもらうのとは
          べつの感激があります。
          でも、やっぱり意外な組み合わせでしょうか。
                                          2000年8月10日

最近の書評、解説など

          新潮社「波」8月号に、
          「日本人狩り、米ソ諜報戦がスパイにした男たち」小坂洋右(新潮社)。
          北海道新聞7月30日読書ページに
          「ゴッホの証明」小林英樹(情報センター出版局)。
                                          2000年7月30日

入国拒否の名誉

          と、見出しに書くほどたいそうなことではないのですが、
          この夏に予定していた二回目のキューバ取材が、
          報道ビザがおりずに、中止となりました。
          媒体が月刊プレイボーイだったので、ビザ発給が拒否されたのです。
          まあ、たしかにそれも理解できないわけではないと頭をかきつつ、
          物書きとして一国政府から報道ビザ発給を拒否されたことは、
          名誉と考えようと、自分をなぐさめています。
          7月26日の革命記念日、カストロの演説をこの目で見たかったのですが。
                                           2000年7月22日

エトロフ島内保海岸に上陸した


          エトロフ島内保海岸を訪ねる「北方領土」自由訪問団に参加してきました。
          エトロフ島に行くのは、これで三回目。今回は、父の家族の故郷である
          内保の部落跡を、はじめて訪ねたのでした。

          部落跡には廃屋などもいっさいなく、自然のお花畑に埋もれていました。
          ただし地形だけは、あまり変わっていない、とのことです。
          砂丘の窪地に、ロシア人の漁場管理人の小屋が一軒だけあって、
          映画「ダンス・ウイズ・ウルブス」のケビン・コスナーの小屋を連想させました。
          天候のせいもあって、寂寥とした印象のあるところでしたが、
          景観や、自然の原始性には大いに惹かれるものがありました。
          こんな場所で馬に乗れたら、と感じたものです。

          朽ちかけた電信柱の列が連なっていましたが、訪問団長は、
          「これは日本時代のものではなく、
          ロシア国境警備隊が立てたものだ」と言い、
          帰国後の記者会見でも、そのように発表していました。
          でも、ロシア国境警備隊なら、強力な無線設備を持っているはずですし、
          有線電話をわざわざひく理由がありません。
          あの電信柱の列はやはり日本人が戦前に立てたものだと
          思うのですが。ちょっと解せない判断でした。
          細かなことですが、妙に気になっています。
                                              2000年7月10日


逢坂剛さんと映画対談


          逢坂剛さんと、先日、映画をめぐって対談しました。
          テーマはギャング映画、と、最初は聞いたのだけど、
          定義をたしかめてみると、逢坂剛さんが語りたかったのは
          狭義のギャング映画を含めた暗黒映画全般。
          ちょっと年齢の差があるので、好みの作品は、
          見事に一作品も重ならずに、それでいて話ははずみました。

          意外だったのは、逢坂さんは必ずしも五十年代のこのジャンルの映画を
          すべて初公開時に観ているわけではなく、ビデオやWOWOW、
          スカイパーフェクTVなどで、追いかけていたこと。
          WOWOWではけっこう古いのをやっているのだよ、と教えられ、
          刺激されて、わたしもいま(ようやく!)、
          WOWOWの入会手続きをしてきたところです。
          加入料無料、月料金2000円。
          ひところよりもずいぶん安くなっていた。
          この加入料無料(正確には、4000円キャッシュバック)キャンペーンのこと、
          WOWOWのホームページにも出ていなかった。
          ずいぶん得した気分です。

          対談は、オール読物8月号
                                             2000年7月3日

書評に対して作家とメディアが取るべき態度


          先日27日、推理作家協会賞の授賞パーティがありました。
          このパーティの会場で、わたしのホームページの書き込み内容をめぐって、
          わたしと、桐野夏生氏、講談社・岡氏の三人で、話し合いがありました。
          書き込み内容前段の要旨は「桐野氏、岡氏が、関口苑生氏の書評に腹を立て、
          各メディアに対して、関口氏に書かせるなと要請しているらしい」ということでしたが、
          ご両氏ともこの事実を否定しました。
          問題を狭くとらえれば「複数のメディアに対して」、
          「関口氏には書かせるな」という言葉が
          じっさいに使われたか、ということになるかと思いますが、
          おふたりとも、そのような事実はないと明言しています。
          わたし自身も、この部分については、当事者とされている
          編集部や個人に真偽のほどをたしかめてはいませんでした。
          伝わってきた話をもとに、実名を挙げて書き込みを行った軽率さについては、
          謝罪しなければなりません。
          伝聞にもとづいていた以上、6月12日付けの書き込みは、
          本文全文を削除します。何もなかったことにするわけにもゆきませんので、
          当分のあいだ、見出しだけは残したままにしておきます。
          
          ご両氏は、「新潮45」の匿名書評をめぐって、
          同誌編集部を訪れていたことは、事実として認めました。
          (最初は岡氏、二度目は岡氏と桐野氏のふたりで)。
          筆者に会いたい、直接話を聞きたい、という
          要請のためだったとのことです。
          これについては、わたしはやはり書評家に対してのある種の圧力であったと考えます。
          「会いたい」「話を聞きたい」という意図以上のものとして、匿名の筆者も、
          編集部も受けとめたはずです。
          「フライデー」の編集部にビートたけしとその一党が乗り込んだことと、
          本質的には変わりません。

          わたしと桐野氏、岡氏の話し合いの場に同席した新潮社の編集者は、
          その匿名の書評家は、関口苑生氏ではないと保証しました。
          この点でも、噂は事実から離れてひとり歩きしていたようです。

          昨日、岡氏から、「新潮45」の問題の書評がファックスされ、初めて読みました。
          たしかに「桐野夏生をいい気にさせてはいけない」という、なんとも
          挑発的な一行からはじまる書評であり、全体に妙に「えらそう」な文章であると思います。
          桐野氏の経歴に触れた部分など、悪意めいたものも感じられます。
          しかしそれでも、この中身であれば、編集部まで出向いてゆくほどのこともない、
          というのが、正直な気持ちです。
          全体では桐野氏の作品を高く評価しているのですし、
          桐野氏、岡氏は、過剰に反応した、という印象をぬぐいさることができません。
          わたしであれば、この匿名の筆者に対して、編集部気付で「不快」を表明する
          手紙ぐらいは送ったかもしれませんが、酒を飲んで愚痴って終えたかもしれない。
          いずれにせよ、その程度のことでしょう。
          
          以下は一般論です。

          書評は、仲間うちのほめあい、持ち上げ合いになることよりも、
          厳しく、歯に衣着せないものであることのほうが健全です。
          わたしはむしろ、このところミステリーの書評が、「業界」の狭い範囲で
          完結しているような印象をもっており、そのことのほうを危惧しています。
          70年代の日本映画の批評って、まるで信用できないという印象が
          ありませんでしたか?

          品のない、低劣な書評は、どっちみち読者からも拒まれます。
          作家があえて時間をさいて本気で相手にしなくても。

          アメリカのある作家が言っていました。
          「作品のタイトルさえまちがえなければ、なにを書いてもらってもけっこう」
          作家は、この態度を基本にしてよいのではないでしょうか。

          それが誰であれ、メディアが書き手の発言の場を奪うような態度に出た場合、
          わたしは無条件で「表現の自由」の原則の側に立つでしょう。
          (もしかすると、このテーマに関して、わたしはときおり過敏に反応するのかも
          しれません)
                                               2000年6月29日

東芝がワープロの生産をやめたという


          東芝が、とうとうワードプロセッサの生産をやめたそうです。
          わたしもすでに単機能ワードプロセッサからPCに乗り換えていますが、
          やや感慨深いものがありますね。
          そもそも初めてワードプロセッサを見たのが、たしか1980年の事務機の展示会。
          霞が関ビルでおこなわれたこの展示会に、東芝、キャノン、富士通が
          ワードプロセッサを展示していました。どいうわけか、価格が見事に揃って630万円前後。
          もしかしたらもっと差はあったかもしれませんが、この価格で記憶しています。
          どれもサイズは、事務用デスクひとつぶんの大きさでした。

          じっくり説明を受けて、ようしいつかこれを使ってやると決意しましたが
          630万円では手が出ない。でもこんなふうに思いました。
          この手の製品は、一年ごとに価格が半分になるはず。数年後には、
          十分に買える価格になるはずだ。
          翌年、富士通は270万で発表しました。予想通りです。
          あと一年待てば、また半額になるはず。
          なりました。OASYS100J、159万円。これなら買えるか。
          とはいえ、これでも普通乗用車一台ぶんの値段です。
          三カ月ばかり悩みました。もう一年待てば、また半額になってるはずだ、と。
          でも待てなかった。買いました。
          もう一年待つよりも、がんがんとこれで仕事をしたほうがいいと判断したのです。
          翌年、富士通はマイオアシスというパーソナルユースの製品を出しました。75万円でした。
          ワードプロセッサの普及が始まったのは、たぶんこの製品からのはず。
          でもわたしは、待たずに買って、一年で十分にもとを取ったように思います。 
          それからもう18年になるのですね。

          もうひとつ感慨深い思い出。
          100Jはよくキーボードが接続不良となりました。
          三度目くらいには、ディーラーのサービスマンから、自分で直せますよ、と
          言われ、それ以降は、自分でハンダゴテを使ってキーボードを直したものです。
          いまのキーボードは、ハンダゴテで直せるのでしょうか。
          そもそもこの手のトラブルは、ほとんどなくなりましたが。
          それでも、ハンダゴテを使ってキーボードを直していた自分が、
          少しだけなつかしい。
                                                 2000年6月24日

「屈折率」井家上隆幸氏が書評していた


          ちょっと時期のずれた話題になりますが、
          「屈折率」(講談社)について、文芸評論家の井家上隆幸氏が
          原稿用紙10枚という長めの書評を書いてくれていました。
          目にしていなかったので、紹介します。
          「図書館の学校」2000年3月号。
          「エンターテインメント小説の現在」という連載の3回目。
          図書館にはたいがい置いてある雑誌だそうです。
                                                 2000年6月21日

レベル3の気分転換

          物書きはみな、独自の強固な執筆スタイルを持っていますが、
          とくに気分転換や集中のためには、試行錯誤しながら
          これだというノウハウをものにしてきたはず。
          わたしの場合、集中力が落ちたとき、あるいは意識をすっきり変えねばならぬとき
          切実さの度合いに応じて、つぎのどれかの方法をとります。
          1、冷たい水で手を洗う
          2、散歩またはドライブに出る
          3、部屋を掃除する
          4、旅行をする
          5、引っ越す
          1がいちばん軽い対処策で、5がもっとも重症のとき。
          昨日、二本まとめて原稿を送ったので、きょうは部屋の掃除。
          レベル3です。
                                                 2000年6月21日

                

森総理の「初めてのEメール」


          先日、選挙がらみのニュースで、森総理大臣がどこかの小学校を訪れ
          初めてPCを使ってEメールを送った、と報道されていました。
          おっと待てよ、沖縄サミットの議題はIT革命である、と訴えているのは
          このひと(それに前の総理だったひと)ではなかったか。
          森さん、まだPCに触ったこともなかったの?(たぶんそうだろうとは
          思ってましたが)。

          また先日、民主党のある候補のホームページをのぞいたところ、
          中身はたった3ページ。
          箇条書きにした政策と、家族やら趣味についての短い情報だけ。
          アンケートに答えさせる方式で、
          党本部が業者にまとめて作らせたもののようでした。
          あれでは、「自分は日常的にはPCを使っていない」と、
          わざわざ強調しているようなものです。
          いっそこんなホームページなど持たなければ、
          それはそれでひとつの見識の表明であったでしょうに。

          政治家はとくべつに「進んでる」必要も、
          「先を行ってる」必要もありませんが
          せめて社会とシンクロしていてほしい。

          アメリカのクリントン大統領とゴア副大統領のふたりが、
          「すべての公立学校をインターネットで結ぶ」
          という政策のキャンペーンで、カリフォルニアの小学校のケーブル敷設工事に
          参加したことがありました。
          ふたりとも、ジーパンにダンガリーシャツで、
          ケーブルを引っ張っていました(写真撮影用のパフォーマンスであることは
          明白ですが)。
          あれはたしか前回の大統領選挙の前のことでしたから、
          1995年ぐらいだったでしょう(あるいはもっと以前か)。
          あのときすでに、クリントンもゴアもまちがいなく、
          自分でキーボードを打っていたでしょうし、
          Eメールを送ることができたはずです。インターネットの有用性や、
          可能性を実感していたはずです。
          日本の政治は、この5年の差を縮めることができるのでしょうか。
                                                  2000年6月20日

こんなところに出ています

          今月目につく単発仕事、記事など。
          小説新潮7月号エッセイ「わたしのIT革命」
          オール読物7月号には、推理作家協会賞の選評、グラビアページでは、
          「わたしがはまっているもの」というタイトルで、私生活の写真。
          ほかに集英社文庫「スクランブル」若竹七海、解説。
                                                  2000年6月19日

スペクタクル史劇が観たい

          いまテレビでさかんに「グラディエーター」の予告編をやっています。
          そういやあひさしく古代ローマ史劇なんて製作されていなかったな、と
          この手の映画を熱心に観ていたころを思い出しました。
          世界各国どこでも人件費があがり、エキストラを大勢使っての映画の製作は
          困難になったのでしょうが、いまはCGがある。
          もしかすると、あんがいまたこの手の映画は増えるのかもしれない。
          「スターウォーズ1」にも、まるで日本の時代スペクタクルを思わせる
          合戦シーンが出てきたし、ちょっと楽しみです。
          もちろん、本物の馬、本物のひとを使って作ってほしいのはやまやまですが。
          それにしても、この手の映画はビデオでというわけにはゆきませんね。
          映画館のない土地に住んでいると、こういうときくやしい。
                                                  2000年6月17日

「太陽」7月号「ロバート・キャパ特集」にエッセイ

          5月は短い文章をわりあい多く書いた月でした。
          そのうちの一本が「太陽」7月号「ロバート・キャパ特集、ちょっとピンぼけ」のエッセイ。
          キャパの自伝「ちょっとピンぼけ」のラストと、
          アーウィン・ショーの短篇「フランス式のさよなら」との関連について、
          憶測だけで書きました(憶測という言葉よりも、実作者としての勘、と言ったほうが、
          よいかもしれません)。
          そうしたら、同じ特集の海野弘氏の文章で、戦後のパリでキャパとショーがかなり親しかった
          という事実を知りました。憶測はかなりいいところをついていたわけです。
          あの短篇の主人公には、やはりキャパがイメージされていたのでした。
                                                 2000年6月13日

出版記念パーティの出欠名簿

                                              2000年6月12日
          本文全文を削除しました。
          関連テーマに関して、数日後にあらためて書き込みます
                                              2000年6月28日

マツダと住友の不幸な関係

          週刊ポストの連載の資料として、最近
          「自動車産業とマツダの歴史」というノンフィクションを読みました。
          著者は河村泰治という、マツダの元社員。出版社は郁朋社というところ。
          今年の4月19日の刊行です。
          大胆に要約してしまうと、マツダ(東洋工業)という自動車メーカーが、
          住友銀行によってどんなふうに
          殺されていったか、ということを証言した本です。
          どういうわけか(住友銀行への遠慮なのでしょう)、
          マスメディアの書評などでは、この本のことはほとんど取り上げられていませんね。
          自動車産業にいくらか関心のあるひとのあいだでは、
          住友銀行によるマツダ支配がマツダをだめにしたのだ、と語られてきました。
          でも、その内部の実情については、マツダ内部から声が上がったわけでもないので、
          いまひとつ不鮮明でした。でもこの本の中身はすごい。
          住友銀行がマツダに乗り込んでやったことは、
          ちょっとすさまじい専制的恐怖支配とでも言うべきもの。
          自動車を愛してもいない無能なひとたちが、日本のひとつの優良自動車メーカーを、
          好き放題に切り刻んで、ぼろぼろにしてしまったのでした。
          著者は、住友銀行のただひとつの「功績」として、フォード・カードを残してくれたこと、と
          痛烈に皮肉っています。
          住友銀行の支配のもとにあるよりも、ほかの自動車メーカーの傘下に入ることが
          マツダにとっては幸いであったということです。
          かなり衝撃的な中身のノンフィクションです。
                                                  2000年6月1日

今年の推理作家協会賞

          結果については、もうご存じかと思いますが
          今年の推理作家協会賞の選考は、これまでと少しスタイルがちがいました。
          まず、選考委員がふた組になったこと。これまでは五人の選考委員が、
          長編から短編、評論その他の部門まで
          全部を受け持っていたのですから、昨年などは候補作を読むのに
          たいへんな体力を使ったものです。
          今年は、長編部門が五人の選考委員で。
          短編と、評論その他の部門はまたべつの五人の委員でと、
          分かれたので、一昨年から引き続き委員を担当した小生も、
          今年はいくらか荷重が軽く感じられました。
          また、去年も問題になった連作短篇の取り扱いが、
          短篇ではなく長編部門のほうに組み入れられました。
          選考自体は、ホテルの会議室をアコーディオンカーテンで仕切って同時進行です。
          ずいぶん大がかりなものになった、という印象があります。
          小生が受賞したころは、受賞者が選考会場へ駆けつけてあいさつする、
          なんてこともありませんでしたし。
          ともあれ、評論部門で受賞した「ゴッホの遺言」(小林英樹)は、
          絵画論であると同時に上質のミステリー。
          魅力的な謎がすっかり解決されたときは、涙が出てくるほどの感動でした。
          ミステリーの書き手を大いに刺激する作品でした。
                                                  2000年5月21日

「マイペース酪農」という本が出た

          知り合いの酪農家さんが、農文協という出版元から
          「マイペース酪農」という本を出しました。
          この人、東京・浅草の出身で、およそ三十年ほど前に、北海道の中標津という町で
          開拓入植者として原野の開墾からはじめた、という経歴をもっています。
          農水省の進めた大規模酪農化に徹底して反対、
          夫婦ふたりが無理なくできる酪農を心がけて
          規模は小さくても、はたから見ても豊かな酪農を実現しました。
          紅茶を飲み、チーズを作り、ときには夫婦でバイク・ツーリングに出かけ、
          札幌まで夫婦でオペラを聴きに行く。
          先日はやはり夫婦でフランスのチーズ事情を視察に行ってきた
          というかたで、このようなひとがいると、農家って悪くないな、と感じます。
          農業経営の数字の分析などもあって、けっこう専門的な中身の本なのですが
          おもしろく刺激になりました。日本の農業に興味のあるひとにはお勧めです。
                                                  2000年5月10日
 

カラフトルリシジミという蝶がいるとか

          本日、編集者ふたりがはるばる来訪。某紙の文芸担当で、来年の2月からの連載の
          打ち合わせでした。この担当ふたりのうちのひとりが、蝶の愛好家。
          小生の仕事場のあるこの土地には
          以前にも蝶の採集にやってきたことがあるとか。
          本州では高山でしか見られないブルー系統の蝶が多いのです、と
          うれしそうに話してくれます。しばらくそっちの話題の聞き役にまわりました。
          カラフトルリシジミ、なんていう蝶の名前を覚えてしまった。
          新潟の女性監禁事件では小説「コレクター」(ジョン・ファウルズ、
          映画はウイリアム・ワイラー監督)のことが
          話題になりました。女性を「蝶」を採集するように誘拐してくる男の話。
          当然こっちのことも思い出し、同様にこのひとの話も小説の素材にならないか
          吟味してしまう。
          ひとに趣味の話をしてもらいながら、こんなことも考えてしまうのですから、
          小説家というのは、因業なものです。 
                                                  2000年4月27日

「榎本武揚」1900枚を超えた

          「最近の仕事」のページでも書きましたが、「榎本武揚」(中央公論新社)の
          書きおろしを進めています。
          原稿の量で言えば、いま1900枚を超えたあたり。
          2200枚ぐらいまでゆきそうですが
          書き終えたところで頭にもどって、かなりのエピソードを刈り込むつもりです。
          全体で1800枚ぐらいの作品になればよいと思っています。 
                                                  2000年4月25日


 以下2000年4月雑録

オートモ号という自動車を見た

          週刊ポスト連載「疾駆する夢」の取材で、東京・上野の国立科学博物館へ行きました。
          「20世紀の国産車」という自動車産業の発展史の展示。
          オートモ号という、大正年間に作られた国産車の復元展示がこの特別展の目玉でした。
          フジキャビン、という三輪車も出展されていましたが、これがたいへん興味深かった。
          連載の主人公に作らせようと思っていた三輪車と同じコンセプトだったもので。
          それにしても、外国では科学博物館にも自然史博物館にもよく入るのに、
          上野の国立科学博物館に行ったのは30年ぶり。修学旅行以来でした。

                                                             

音楽療法士の奇跡

          音楽療法士という仕事があると知ったのは、わりあい最近のことです。
          ある養護施設でおこなわれた勉強会に参加して話を聞いたのですが、
          やはり職業的好奇心をそそられるものでした。
          サリバン先生の奇跡は、現実にあるのだ、と知りましたよ。
          某新聞日曜版の連載では、これを素材としたい。
          来週、その件で編集者が北海道の仕事場まで打ち合わせにやってきます。
          療法士さんへの取材は、来月からはじめることになるでしょう。

いま警察小説を書き出したら

          「榎本武揚」を終えたら、角川春樹事務所の、警察小説シリーズにかかります。
          日本版のマルティン・ベック・シリーズという性格のシリーズになるでしょう。
          警察犯罪を素材にしたいとは前々から思っていましたが、
          このところ警察犯罪は噴出しすぎ。
          きわものめいた小説と受け取られないか、いまから心配です。
          素材が豊富なのはありがたいことですが。

新PCは快適だ

          モニターを見るときどうも目がかすむと思っていました。
          eメールを打つときなど、文字の選択ができないくらい。
          老眼が進んだせいかと思っていたら、モニターの寿命でした。
          いい機会なので、PC全体を新しいものに取り替えました。
          OSはウインドウズ98で(これまでは95)、
          キーボードは、FMV−KB211。これまでと同じ親指シフトながら、
          専用機能キーがPC用のものと同じファンクションキーに変わっています。
          全体にひじょうに使いやすくなった。軽い、という感じがします。
          ヘビーユーザーなのだし、こういうテクノロジーについては
          やはり三年ぐらいをめどに新鋭機に交換すべきですね。
          文字がかすむまで使い倒してしまってはいけない。
        

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