主に本の話題。ブックレビューではなく、
むしろより具体的な個人情報のひとつとして。
ひとりごとなので、文体が変わってしまった。

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「さて、コーヒーをいれようか」 |
00/10/10から
「英語で日本語を考える」片岡義男
「歴史とはなにか」岡田英弘
「ソトコト」木楽舎
「ルネ上野桜木全面広告」
「スティーブン・キング、インタビュー」
「ウェルカム・人口減少社会」古川俊之
「プロレタリア文学はものすごい」荒俣宏
「17歳の殺人者」藤井誠二
「ブレヒトの詩」ベルトルト・ブレヒト
「北人伝説」「タイムライン」マイケル・クライトン
「アレクサンドロス大王、『世界征服者』の虚像と実像」森谷公俊
「私が嫌いな10の言葉」中島義道
「ベートーヴェンと蓄音機」五味康祐
「桶川女子大生ストーカー殺人事件」鳥越俊太郎と取材班
「インターネッは『情報ユートピア』を作るか」野口悠紀雄
近況ページのほうで紹介
「ゴッホの遺言」
「ゴッホの証明」小林英樹
「自動車産業とマツダの歴史」川村泰治
「マイペース酪農」三友盛行
「脱藩大名の戊辰戦争」中村彰彦
装丁が素敵でまず手にとってしまった。
黄色い表紙に、ひと目で平野甲賀のものとわかる文字。
サイズはおおよそ新書版なのだけど、一見、ペーパーバックのように見えた。
いまほかの新書と較べて見たら、中公新書や文春新書よりも五ミリほど細身。
ぴったりアメリカのペーパーバックのサイズである。
同時に気がついたけど、宝島新書もこのペーパーバック・サイズなのだな。
新しい潮流か。
中身は、英単語にまつわる軽いエッセイだ。
シリーズの二冊目らしい。テーマは、著者がこれまでにも
さまざまに書いてきたことで、目新しい中身ではないが、
飛行機の中で読むにはちょうど手頃な一冊だった。
じつは全日空の機内誌の片岡義男の連作短篇を読むのが、
飛行機に乗るときの楽しみのひとつなのだ。
最近、ほとんど全日空を使わなくなったので読んでいなかったのだが、
羽田に向かう直前にこの本を見つけて買ったので、
ひさしぶりに飛行機の上で片岡義男を読んだことになる。
この本の出版社は、はじめて聞くところだ。
奥付を見ると、所在地は世田谷区代沢。アドレスの最後に204と三桁の数字。
下北沢の集合住宅の一室ということだろうか。
女性中心の、編集プロダクションの雰囲気もある小さな出版社、と想像してしまう。
片岡義男のこのシリーズが続くといいな。
01/03/10
このところ、小説はまったく読めず、読書といえばもっぱら新書。
これも最近読んだ新書のうちの一冊。
著者は中国史と日本古代史の大家のようだが、これまで読んだことがなかった。
読んでみて、いままで自分の視野に入っていなかった理由がわかった
「日本書記」「古事記」の記述の信憑性をこてんぱんに叩くあたりは
痛快なのだけど、筆はかなり滑っている。学術啓蒙書の文章ではない。
モンゴル帝国が資本主義経済を世界に広めた、という主張など、
手形決済イコール資本主義という認識である。
著者は、民主制と共和制を、普遍性のない政治原理としてしりぞける
(著者の最も主張したいメッセージは、これらしい)。
その論拠として、「19世紀の国民国家の時代までは、地球上ではどこでもみな、
君主制か自治都市だったのだ」と記述する。
いっぽうで著者は、
「国民国家の成立まで、いまわれわれが考えるような国家はなかった」とも言っている。
「国家のない時代には、共和制国家はなかった」と主張されたら、
それはそうでしょうね、と反応するしかない。
そもそも歴史家が自説の根拠を語るのに、「どこでもみな」などと粗雑に記述してよいか。
全体にこの調子。刺激的な説を並べるが、
論拠の採用は恣意的、記述に矛盾が多い。
また、本書の「結論」なのだとして著者は書く。
「清朝時代までの皇帝の歴史も、国民国家になってからの中国の歴史も・・・
どちらも『悪い歴史』だ」
「どちらの中国史も、普遍性と妥当性を持つものではない」
だけど、「正史記述者の史観が偏っている」ということなら、
すべての正史がそうであろうし、
特異でユニークな歴史、と言っているのであれば、、
それはどの国・どの文明の歴史にだって、多かれ少なかれ言えることだろう。
中国史だけを「悪い歴史」と切り捨てることはあるまい。
それとも著者は、中国史ではなく、中国史・学を問題にしているのだろうか。
歴史啓蒙書の体裁をとったアジテーション、という本である。
きちんと読み通したことを後悔した新書。
わたしは、読んで腹が立ったときほど、その本についてひとりごとを言いたくなる
たちらしい。
01/02/13
こういう雑誌があることを知らなかった。
書店でふっと「馬」という文字が目にとまり、手にとったら、いままで
読んだことのない雑誌。「地球とひとをながもちさせるエコ・マガジン」とある。
月刊誌で、もうノンブルは19。創刊されてからしばらくたっていたようだ。
エコ・マガジンとうたっているが、中身はけっこうお洒落(つまり消費的)だし、
主張がとんがりすぎてもいない。興味深い雑誌である。
この号の特集は『馬に癒されたい』というもの。
この中ではとくに林良博という農学博士のインタビューがおもしろいものだった。
林氏は、いま日本には12万頭しかいなくなくなってしまった馬の数を
50万にまで増やそうと主張しているのだが、
50万頭に増えるはずだ、という根拠が、
きわめて説得力のあるものなのだ(ごく短いコラムの部分だが)。
妙にうれしくなる主張だった。
ただし、『馬で癒されたい』とタイトルをつけた特集でありながら、
競馬に関連した記事が多いのは不可解。
この雑誌の編集者たちも、馬と聞いてすぐ競馬を連想するのだろうか。
わたしは競馬をやらないので、
競馬で『癒される』ひとなんているか、と思ってしまうのだが。
01/01/14
上野桜木の言問通り沿いに、総合地所と長谷工が、
高さ14階の高層集合住宅(いわゆるマンション)を建てようと計画している。
地元住民は、この計画に仰天し、
総合地所・長谷工に話し合いの場を持つように求めているが、
彼らは話し合いに応じようとはしていない。
14階建てのビルは、このエリアの景観を破壊する。
狭い言問通りに建つのに、車寄せのスペースも作らぬ設計だという。
話し合いを拒絶したまま、
総合地所と長谷工は、日経新聞元旦号に、このマンションの広告を出した。
広告紙面で、写真家・立木義浩が、このマンション建設に賛成する立場で、
このマンションのデザイン監修を担当している建築家、新津正昭と対談している。
新津「だから情緒が色濃く残っているんです。路地がまだありますし」
立木「写真を撮る側からすると、日本固有のものが一条の光のように残されている
嬉しいエリアです」
しかし、ふたりも認めるこの地区の風情を、
「ルネ上野桜木」なる高層マンションはぶちこわすのだ。
このマンションがこのエリアの景観を破壊することは、
当の総合地所・長谷工も理解している。
広告には、こんなコピーが記されているのだ。
「ランドスケープに、美的インパクトをあたえたかったのです」
わたしに言わせれば、それはユーゴ空爆なみの破壊的インパクトである。
わたしはこの地区に住むようになってまだ十年の新参者だが、
ここの風情とたたずまいがすっかり好きになっている。
寛永寺を中心にした寺町の趣と、下町の住宅街の雰囲気が溶け合って、
落ち着きと、ある種のなつかしさに満ちているのだ。
森まゆみさんが「谷中・根津・千駄木」というタウン誌で
この地区の歴史性と物語性を繰り返し語ってくれるおかげもあって、
近年、この地区を訪ね歩く観光客もずいぶん増えてきた。
でも、この町の景観もたたずまいも、偶然に生まれたものではない。
たまたま「残った」ものでもないのだ。
住民たちが意識的に創りあげてきたものだ。
住民がコミュニティのソフトウェアを守り、育て、
ハードウェア造りにも関係者が配慮してきたから、
その結果としていまのこの界隈のよさがあるのだ。
昨年は、谷中・三崎坂に計画された12階建てのマンションが、
住民と大京観光との話し合いで、6階建ての建物に変更となった。
(この運動と話し合いの過程は、街造りのモデルケースとして、
テレビのドキュメンタリー番組でも紹介された)
このエリアには、高層ビルを建ててはならない。
いまも7階建て、8階建てのビルがないわけではないが、
6階建てまでが、ぎりぎりの許容限度だと思う。
(ちなみに、このエリアで最も醜悪なビルは、
東京芸大・美術学部の8階建ての校舎である。
およそ芸術大学の施設とは思えぬ醜さだ)
総合地所と長谷工のやろうとしていることは、
地元住民が時間をかけて創り上げてきた価値の上澄みの窃盗であり、
そしてその価値そのものの破壊行為にほかならない。
日本経済新聞掲載のこの全面広告、不愉快を通り越して、
地元住民への挑発、とさえ感じられるものであった。
01/01/01
スティーブン・キングが99年の6月に交通事故に遭っていたのだという。
わたしはまったく知らなかった。月刊プレイボーイの今月号に、
そのスティーブン・キングへのインタビューと評論が載っている。
月刊誌で6ページの記事だから、かなり読みごたえがある。
この記事を読んで知ったが、
わたしたちは、もう少しでキングの新作を読めなくなるところだったのだ。
もっとも、わたしは「グリーンマイル」を最後に、
あとの新作は読んでいないな。
「キャリー」からはじまって、以来リアルタイムで読み続け、
最近まで読破率85パーセント以上(たぶん)、を誇っていたのだが。
この記事で初めて知ったもうひとつの事実。
キングは、「クージョ」を書いていたころ(1985年ころか)、
コカイン中毒だった、ということだ。
「クージョ」を書いた記憶が、そもそもまったくないのだという。
とすると、あの印象的な短篇、
夜中に小人たちが自分に代わってタイプを打ってくれている、
と妄想する作家の話が、これまたちがった意味合いを持ってくる。
キングの言葉の中で、自戒をこめてときどき思い出すものがひとつある。
「ぼくは毎日書く。誕生日とクリスマス以外、書かない日はない」
(うろ覚えなので、正確な引用ではない)
キングは執筆中毒だが、でも物書きはそうでなくてどうするのだ、と思うのだ。
おっと、そういえばきょうはクリスマス・イブか。
00/12/24
いま日本の「少子・高齢社会」化が心配されているのだけれど、
本書は、それは社会の成熟化ということだ、と言う。
おそるるに足らずと、いちおうは元気づけてくれるのだが、
同時にやはりこれは、恐怖の警告書である。
年金が破綻する、ということは、著者たちも認めており、
2025年までにいまの既得権益維持のシステムは破産する、とも指摘している。
その点を考えると、やはり少子・高齢社会の到来は、
ふつうの市民にとっては、かなり恐るべきものだと言える。
北欧などと比較し、日本人の民度の低さも指摘している。
日本の構造改革はシステムが破産したあとにしかない、という認識は厳しい。
やはり、いちばんの問題はそこなのだろうな。
ロシアの年金生活の老人たちの様子が、ちらりと脳裏をよぎる。
00/12/19
タイトルは大いに問題あり。中身は逆なのだ。
かなり期待して読みはじめたのだが、
著者が「面白い」「ものすごい」と、評価するのは、
プロレタリア文学の定義にははずれる同時代の外国の幻想小説やSFである。
プロレタリア文学の定義に収まる日本の文芸作品については、
いくつかその表現の先鋭性を評価するものの、
おおむねからかいの調子ばかり(と読める)。
カバーには「それはとてつもなく面白く、豊穣な世界なのだ!」と書いてあるのだが、
最後のページで著者の出している結論はこうである。
「プロレタリア文学は、芸術至上をいえるほど質の高いものではなく、
また講談社系の大衆ロマンに勝てるほど大衆的なおもしろさをもたなかったのである」
「だから、誰もいなくなった」
面白いとも、豊穣だとも言っていないのだ。
それとも、これだけからかえるのだから「面白く、豊穣だ」ということなのだろうか。
でも、プロレタリア文学は、著者がやらなくても、これまで十分に
からかいの対象となってきたのではないか?
00/12/04
あまりひとには勧めたくない本だ。読後は、暗くなる。
八八年に足立区で起こった「女子高生コンクリート詰め殺人事件」を
中心にした、いくつかの少年犯罪ルポルタージュなのだ。
ただし、足立の事件の細部を知って、理解不能の事件、とは感じなかった。
事件の現れかたは凄惨で想像を絶したものではあるが、
基本は、かなり単純、と思える。
加害者たちのおいたち、資質、親子関係、学校のありよう、地域社会、行政。
どの要素も、図式の中にすっぽり収まる。謎はない。
ただ、ひとつひとつが、どれも極端なだけだ。
極端の総和としての、監禁、殺人、死体コンクリート詰め遺棄。
やりきれない明快さ。
加害者たちの出身校である東綾瀬中学のありかたも恐ろしい。
「荒れていない」学校としての評判を得るため、
学校の方針として、教師による体罰は積極奨励、
いじめは黙認、体罰やいじめにおびえて長期不登校の生徒が
常時五十人以上いて、学校はそれを容認していたという。
仕事場のある町でも、一昨年から昨年にかけて、
十カ月しかあいだをおかずに、二件の高校生リンチ殺人事件が起こった。
人口比で見るなら、異常な頻度、異常な多さと言えるだろう。
町を取り巻く田園風景ほどには、ここは牧歌的なところではなかったのかと、
わたしもいささか衝撃を受けた。
そんなこともあって、読後感の悪さはわかっていたけれども、
ついついこの本に手を伸ばしてしまった。
町の書店にはどっさり平積みだったのだ。
たしかにこの町では、よく読まれることだろう。
00/11/14
重信房子が連行される映像のあとに、女性アナウンサーが、
あざけるような調子で言う。
「彼女はいったい、何と闘う、と言っていたんでしょうね?」
ニュースの中で重信房子が「がんばるから」と
言っているのは聞いたが、「闘う」とも言っていたのだろうか。
もしほんとうに言ったのだとしても、
含み笑いの表情で口にするような疑問とはならないだろうに。
「何と闘う、と言っていたんでしょうね?」
無邪気を装って問うことで、
じつはこの女性アナウンサーは、
自分で自分向きの答まで示してしまったのだ。
俗物性。
この二日間、ブレヒトを引っ張りだして、読み返している。
たとえば、こんな一節に、あらためて目がとまる。
「あとをくらませ!
きみが死のうと思うなら、こころして
墓標を残すな、残せばきみの居場所は明かされる
はっきりした文字がきみの名前を届けでる
そして没年の数字がきみの有罪を証拠だてる
くどいが
あとをくらませ!」
00/11/11
例の石器発掘捏造事件のニュースを聞いて、マイケル・クライトンを
連想したのはわたしだけだろうか。
マイケル・クライトンは、考古学にはかぎらないが、発掘、という作業に
大変な関心があるひとのように思えるのだ。。
最近作「タイムライン」では、14世紀の遺跡の中から、
その遺跡を発掘調査中の主任教授の眼鏡が発見される。
「スフィア」では、300年先の未来に作られた宇宙船が、
海底から見つかる。「ジュラシック・パーク」でも、印象的なのは冒頭近くの
恐竜の化石の発掘作業シーンだ。
「コンゴ」でも、基本にあるのは、遺跡の発見、というモチーフ。
残念ながら、この事件の藤村新一というひとは、いささか想像力には欠けたようだ。
ありえない物がありえない場所から発掘される不思議さについて、
思い切りとんでもない仮説を作り出し(奇想天外なほどよい)、
専門家たちに論争を挑んでくれたらよかったのに。
そのほうがどれだけ観客席は楽しめたことだろう。
(考古学にとっては、迷惑な話だろうが)。
「タイムライン」も映画化されるそうだが、
つい最近観たクライトン作品の映画化は「13ウォリアーズ」。
これは「北人伝説」が原作で、8世紀のスカンジナビア半島に
ネアンデルタール人がまだ棲息していた、という、きわめて魅力的な設定の話。
でも映画の制作者たちは、
ネアンデルタール人と人類との遭遇という主題よりも、
いかに「七人の侍」の新バージョンを作るか、というところに関心があったようだ。
せっかくの興味深い主題が後方に追いやられて、この映画化には失望した。
もっとも、マイケル・クライトン作品の(他人による)映画化で
成功したものは少ない(「アンドロメダ」は傑作だったが)。
クライトン作品の面白さはなにより基本の設定にあるのであって、
ストーリーではないせいだろう。
映画の場合、その設定をいったん映像化してしまうと、
観客の興味はそこで終わってしまうのではないか。
「ジュラシック・パーク」も、遊園地管理棟のシークエンスまでくると、
もう恐竜にも食傷してしまったし。
「タイムライン」も、映画化した場合、量子コンピュータによる別世界への移動、
というところまで話が進むと、あとはふつうのコスチューム・プレイと
変わらぬ映画になるだろう。「ジャンヌ・ダルク」に勝てるかな。
ともあれ、発掘、という言葉からすぐマイケル・クライトンを連想して
しまったのだった
00/11/10
アレクサンダー大王の事跡を、主に軍事面から考察する研究書。
大遠征のうちの初期の三つの戦いが詳しく分析されるのだけど、
二千三百年前の戦争について、ここまで臨場感ある詳細な記録が、
いくつも残っている、ということに驚く(もちろん史料ごとに異同はあるが)。
わたしが読んだことがあるのは、プルターク(「英雄伝」)だけ。
本書が引用するほかの伝記や史料は翻訳されているのだろうか。
読み終えてから、「馬と人間」というドキュメンタリービデオを観直した。
これはBBCが制作したシリーズで、馬と人間との関わりがテーマだ。
歴史的事実の部分については、歴史スペクタクル映画の映像を
多数引用しながら解説している。
たしかこれにアレクサンダー大王の戦いの映像があったはず、と、
観直してみると、あった。映画のタイトルはわからないが、
「ガウガメラの会戦」が取り上げられ、
史料にあるとおりのアレクサンダーの作戦が再現されていた。
ということは、アレクサンダーの事跡については、
どの戦いでどんな作戦をとった、という程度のことまで、
ヨーロッパのひとびとには常識であるということなのだろう。
著者は騎兵による作戦の記述の中で、
「当時は轡(くつわ)も鐙(あぶみ)もなかった」と書くのだけれど、
轡はすでに存在していた。本書で取り上げられているモザイク画を見てもわかる。
何かの勘ちがいだろう。
プルタークを確認してみたが、
アレクサンダーがブケファロスという馬を短時間で馴致した
有名なエピソードの中にも、轡という言葉は出てきているぞ。
この本を読み、あのビデオを見直したせいで、またしばらく
古代史方面に現実逃避したい気分になってしまった。
00/11/01
「うるさい日本の私」の哲学者の新著。
このひとのエッセイは上記の著書のほか、「哲学者のいない国」
「孤独について」と読んできたが、最初の著作がもっともボルテージが高く、
共感できるものだった。
中身が回顧談や日本文化の考察にとどまっておらず、
「果敢な戦いの記録」であったせいだろう。あれはわたしにとっては、
自分を社会的不適応者とは考えなくてもよい、と
教えてくれたような書物であった。
残念ながらこの新著は、偏屈な親爺のぼやき、っぽく読める。
リストの十番目に「自分の好きなことが必ずあるはずだ」という
言葉が挙げられているのだが、
これは大学教官として就職指導もしなければならない
著者の切実な悩みなのだろうか。
00/10/25
小林秀雄が話題になったついでにと、目についたので手を延ばした本。
五味康祐がクラシック音楽ファンで、
たいへんなオーディオ・マニアだとは知っていたが
この本を読んで、その水準がほとんど「業病」のレベルであったと知った。
五味康祐のベートーベン(注・小生の表記原則)への入れ込みかたは、
ベートーベンの人生総体まるごとの理解と共感と受容、というものだ。
五味康祐は、ベートーベンの困窮や不幸や悲惨を繰り返し語り、
彼の人生についての知識を披露し、
その背景があって生まれたからこれは名曲なのだ、と書く。
自分がこの曲に感動できるのは、
ベートーベンのその不幸を理解できるからだ、
と言っているかのようである。
収められた文章の中に複数、ベートーベンを聴いていて、
幻覚を見た話が出てくる。
親しいひとが眼前に現れるのだ。口をきくときもある。
「幻覚を見たように感じた」ではなくて、
ほんとうに「見た」「現れた」と書いてあるのだ。
いくら音楽に感動したからといって、幻覚を見ることはあるまいと思ったのだが
末尾の年譜を見て納得した。五味康祐は、覚醒剤中毒だったことがあるのだ。
幻覚は、たしかに彼の目には「見えた」のだろう。
娘の誕生の日のことを書いたエッセイも収録されている。
「ムスメの生誕のために音楽を鳴らすことを考えていた。
これだけが父としてわたしのしてやれるムスメへの贈り物だろうと」
こう記す五味康祐は、早朝に奥さんの陣痛がはじまると、
奥さんをひとりタクシーで病院に送り出す。
十時ごろに、女の子誕生の電話。すると彼は、
「この(曲のように)閑雅な品のよさは失わぬそういう女性に、
私は育ててやりたいと思い」、
あらかじめ考えていたバッハの平均律クラビアと
モーツァルトの「戴冠式」のレコードをかけるのである。
このエピソードを、どうやら五味康祐は、自分の微笑ましい家族愛の
話として書いているようなのだ。
でも、わたしは、つっこみたくなる。
おいおい、そこでレコードを聴いているよりも
あんたはまず産院に駆けつけるべきなんじゃないのかい?
他人の趣味のことだけれど、全体に妙にからみたい気分になる本だった。
00/10/25
田舎で暮らしていると、読む週刊誌は限られる。
地下鉄に乗らないから、雑誌の車内吊り広告も見ない。
テレビのワイドショーも見ない(朝7時台の民放の番組は、なんと呼ぶのだろう?)。
となると、しばしば世間を騒がせている話題にうとくなる。
それ自体は自分がそう望んでいることでもあって、とくに不都合ではないのだけど、
上京したときに知り合いたちと話していて、
ある同時代的な話題について、摂取した情報量の差に驚くことがある。
たとえば「東電OL殺人事件」で、佐野真一は、「あの事件に日本中が発情した」と
書くのだが、わたしには何のことやらわからない。
それほどの量の情報があの事件に関して流れたのだろうか。
わたしにとっては、あの事件の骨格についてさえ、
あのルポで初めて教えられた、という部分が多かった。
この桶川ストーカー殺人事件については、
「警察腐敗」という部分が気になって、
わたしもふだんよりは情報に敏感になっていたと思う。
そのときひとつふしぎに感じていたのは、
殺された女子大生の素顔というか、生活について、
メディアのクォリティのちがいで、相反するような情報が流れている、
と見えたことだ。
たまたまのぞいたウェブサイトでも、
なんとも訳知り顔の情報が語られていた。
本書は、あの事件についての番組製作過程の記録だが、
ある意味では、殺された女子大生の名誉回復のためのルポである
(そのぶんだけ、加害者たちの追及が甘いと言えるのだけど)。
埼玉県警の事件調査報告も全文が掲載されているが、
県警はけっこう本気で内部調査をしたのだともわかった。
加害者たちの公判がはじまれば、また興味深い事実も出てくるのだろうが。
読後印象的なのは、被害者の父親の憲一さんの強さだ。
きわめて健全な常識を持ち、加害者たちの脅しにもひるむことなく、
殺人事件後は警察の圧力にも、メディアの暴力にも屈せず、
切れることもなく、絶望もせず、耐えつつ静かに社会と立ち向かう。
その姿が感動的だ。
呉智英が「家族を殺された者には仇討ち権を認めよ」と主張しているが
わたしも、なぜ日本では、家族を殺されたことで復讐に出る父親が出ないか、
ふしぎに思っているひとりだ(アメリカのニュース番組で、
裁判所に入ろうとする加害者を、被害者の父親が撃った、
という場面を見たことがある。映画ではなくて)。
わたしが憲一さんの立場だったら、ここまで強く堂々と対処できるか、自信がない。
はやばやと疲れ果て、自警団主義的解決を求めたような気がする。
本書のようなルポが味方になってくれるよりも前にだ。
00/10/20
『週刊ダイヤモンド』連載だったエッセイをまとめたもの。
『週刊A』と『週刊ダイヤモンドの座談会』での、
氏への中傷に対する反論が興味深いものだった。
この著者もけっこう攻撃されているのですね。
著者が一般には『「超」整理法』で知られるようになったとき、
おそらく「アメリカ的実際主義の伝道者」とでも誤解されたのだと思う。
実際主義者なのは確かだが、そのありようが、
日本の教養主義的知識人には、
自分たちへの挑発と取られたのではないか。
著者への中傷と攻撃は、明らかに教養主義的立場からのものだ。
先日、たまたま観たテレビ番組は、捨てる技術をめぐる特集だった。
これに著者と立花隆が登場してコメントしていた。
著者は、捨てる技術、が確立されることを歓迎する立場。
これに対して、立花隆は、蓄積こそ文化だ、と発言していた。
意外にも、彼も古典的教養主義者だったとわかった。
それはさておき。
教養主義的知識人を、著者はこのエッセイ集の中でも、軽くからかっている。
「ミーハー的『魔笛』論」と題された文章だ。
ここでは著者は小林秀雄(どういうわけか、またこの話題になった)の
「モオツァルト」を取り上げ、引用する。
読んだことはなかったが、小林秀雄はこう言っているのだという。
「わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、
僕は別段不服にも思はない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。
僕はそれで間違いないと思っている。彼の歌劇には、歌劇作者よりも
むしろシンフォニイ作者が立っている、と言ってもあながち過言ではないと思ふ。
(中略)シンフォニイ作者モオツァルトは、オペラ作者モオツァルトから何物も
教えられるところはなかったように思はれる」
モーツァルトのオペラを「上演されても眼をつぶって」聴く、
という宣言には唖然とする。
これって、ドイツ人やオーストリア人(赤ん坊のときから日常的に
モーツァルトの音楽に接しているひとびと、という意味で)に対して、
「あんたらはモーツァルトがわかっていない。わたしの理解が正しいのだ」と
言うようなものではないのか。
小林秀雄にとって、オペラはきっと俗悪な芸能だったのだろうな。
こういう音楽の聴きかたを「オペラ純粋音楽派」と言うのだそうだ。
著者は、「小林秀雄がLDを見ることができたら、
どんなふうに意見を変えただろう」、と想像するのが楽しい、と書くのだが。
わたしは、小林秀雄が、モーツァルトの歌劇に一度も接したことのないうちに
「モーツァルト論」を書こうとした大胆さにまず驚く。
モーツァルトをシンフォニー作者と規定することも、暴論である。
引用の最後のセンテンスにしても、
モーツァルトを相手に、ずいぶん不遜な言いかたではないか。
著者がそう記しているわけではないが、わたしにはこのエッセイはこう読める。
「小林秀雄って、モーツァルトを聴いて
ほんとうに感動したことがあったのだろうか」
この含みに、教養主義的知識人は、たぶん敏感に反応してしまうのだろう。
00/10/10
付記
上記の文章を書いてから、ずいぶん前に読んだ
「モーツァルト」(高橋英朗、講談社現代新書)を読み返した。
その前書きで、著者も小林秀雄ふうのモーツァルト理解について触れている。
「(小林秀雄と、彼に感化されたモーツァルト・ファンは)観念的解釈で、
力んでいるように思えた。それにモーツァルトにとって大事なオペラをすっかり
切り落とし、器楽だけしか認めないという、あるいは短調作品に傾斜した評価は
どうしても納得がいかなかった」
わたしにはそもそも、わたしよりもひとまわり上の世代に、
小林秀雄というひとがどうしてそれだけの影響力を持っていたのかが謎だ。
ホームページビルダーVer.6を入れたのですが、不調です。バグがあるようです。
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