北海道新聞エッセイ:現場に立つ 時空を超えて

第7回 軍事境界線の手前に立って

 とある主題を、日本が内戦中である、という設定で書けるかもしれないと気づいたのは、三年前のソウル旅行のときだ。
 拙作『警官の血』が韓国で映画化されることになり、そのクランクイン直後の撮影現場訪問の旅行だった。撮影が始まったら現場にいらしてくださいと、映画のプロデューサーからの招待を受けてソウルに行ったのだ。
 撮影は夜中にソウルの江南(カンナム)区にある美容整形外科を借り切って行われていた。その撮影の様子を二晩に渡って見学し、合間に監督や主演者さんと対談したり、食事をしたりしたのだった。
 日中は撮影がないので、わたしの作品の翻訳エージェントさんが、ソウル近郊をいろいろ案内してくれた。
 行った場所の中に、軍事境界線に近い二箇所の展望台がある。
 ひとつは漢江(ハンガン)と臨津江(イムジンガン)の合流地点に設けられた「烏頭山(オドゥサン)統一展望台」。朝鮮民主主義人民共和国(通称・北朝鮮)とたった約460mしか離れていない場所にある。
 もうひとつは、臨津閣(イムジンカク)の展望台。臨津閣は軍事境界線から七キロメートル南に位置している。展望台のすぐ北に、臨津江を渡る鉄道橋がかかっている。
 一九五三年に朝鮮戦争の休戦協定が締結されたとき、捕虜だったひとたちが「自由万歳」と叫びながらこの橋を渡ってきたことから、この名がつけられという。
 板門店に行くには、この時期はバスツアーに入らなければならないとのことで、行けなかった。しかしこの二箇所も、十分に想像力を刺激してくれる場所だった。
 そもそも朝鮮戦争の経緯についてさほど詳しくはなかったから、どちらの資料館の展示も興味深いものばかりだった。とくに「自由の橋」と、この公園に残る銃痕だらけの蒸気機関車は、きわめて印象的だった。
 案内してくれたエージェントさんは、当然ながら徴兵された経験を持つ。その軍隊経験も、途中で聞かせてもらった。
 そういえば、とわたしは自分が二十歳前後のころを思い出していた。あの時代、アメリカの同盟国として、韓国はわたしと同じ世代の若者をベトナム戦争に送っていたのだった。同じ同盟国として、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドも軍隊を派遣していた。
 日本がアメリカ熱烈支持の同盟国でありながら、自分たちがベトナムに送られずにすんだのは、憲法のおかげだった。そのことも、エージェントさんの徴兵体験を聞きながら思った。
 このときに、日本の近未来について書きたいという構想が、内戦、分断、軍事境界線というキーワードで具体化し始めた。
 日本の近未来を、このような外形を設定して書くことは荒唐無稽だろうか。それとも読者にも納得してもらえるだけの、現実味のある物語として書けるだろうか。それを考え始めたのだ。
 それは、いま語られている「有事」のシミュレーションとは別の近未来の可能性はないか、と考えるということでもあった。わたしがこの十年ぐらいずっと不安に感じ恐れていた「有事」は、「自由の橋」や「烏頭山統一展望台」で見た近過去により近いのではないか?
 そのソウル旅行から一年経って、あれらのキーワードを背景とした近未来の物語を書きたいと、わたしは編集者さんに提案した。それを妄想とも現実味のないファンタジーとも言わせないだけの、設定への確信もできていた。
 時代がそれだけ、わたしが恐れる「有事」の方向へ進んだせいだろうかとも思う。
 ともあれ、この作品『裂けた明日』(新潮社)の構想をふくらませるきっかけは、あの旅行だった。けっして取材のつもりではなかったのだけど。

第6回 行けば何かが

 わたしの取材旅行の場合、題材もストーリーもおおよそ決まってから行くことが大半だ。なので取材は、その舞台が小説にするほど魅力的か、ストーリーはその土地を舞台にしてほんとうに成立するか、するとしたらシーンは具体的にどう描けるか、それを確認することが目的となる。
 行ってみて、そこが期待していたほど魅力的には感じられず、構想を捨てたことも一度や二度ではない。
 逆に、題材もプロットも固まっていない構想以前の段階で、行けば何かが見つかるかもしれないと出かける旅行もある。
 一九九四年のシンガポール取材旅行では、言ってみればその「行き当たりばったり」性が成功した。
 シンガポールには、その前に観光では一度行っていた。最初のとき、多少はこの街の歴史について情報に接していたから、ここにはきっと自分が書くべき物語があるはずだという直感めいたものを得ていたのかもしれない。それは確実に、第二次大戦をめぐる作品の系列の物語になる。
 なんとか三泊四日の旅行ができる時間をひねり出し、できるだけ効率よく無駄なく、見るべきものを見て、行くべきところに行こうと思った。となると、観光案内書を頼りにしての個人旅行ではなく、旅行代理店を通じて現地の近・現代史に詳しいガイドさんを立ててもらったほうがいい。
「第二次大戦中のシンガポールの事情を知りたい。できるだけ年配のガイドさんを探してくれませんか」
 このときは、大戦中のシンガポールを知っているガイドさんまでは期待していなかった。戦後すでに五十年経っていたのだ。
 ところがシンガポールに着いた翌朝、古い建物をリノベーションしたホテルのロビーで待っていてくれたのは、七十歳を越えたと見える年配の男性ガイドだった。日本軍がシンガポールを占領した二週間後に、日本陸軍の軍属の通訳としてシンガポールに入ったという台湾出身のひとだった。
 戦闘自体は体験していないけれども、周囲の華僑系市民から当時の生々しい様子をよく聞いていたという。
 その日の朝から、戦跡や関連する施設、場所を、そのガイドさんの案内で見て回った。ガイドさんも、わたしの関心がふつうの観光や買い物ではないせいか、ずいぶんうれしそうで、熱心に案内してくれた。
 ブキティマの激戦地、降伏交渉の行われたフォード自動車組立工場跡地、華僑義勇軍のキャンプとなった華僑学校、日本人墓地……
 有名観光地のいくつかは、歴史の舞台ともなっていた。たとえばパダン広場は、チャンドラ・ボースが自由インド仮政府の樹立を宣言した場所だ。それは東条英機がシンガポールを訪問したときのことだった、という事実と結びついた。
 ガイドさんは、直接は戦争とは関係のないその時代のシンガポールについてのエピソードも多く語ってくれた。とても無駄にはできないと感じる思い出話ばかりだった。
 短い旅行期間だったけれども、期待の何倍も濃密な取材旅行となった。滞在中、観たもの聞いたことのすべてが、頭の中でどんどん有機的につながっていく感覚があった。
 短期滞在を終えて帰国の飛行機に乗り、成田空港に着いたときには、なんと、新作のストーリーが出来上がっていた。
 わたしは、第二次大戦中の日本軍に占領されていた当時のシンガポールを舞台に『昭南島に蘭ありや』という小説を書いた。昭南島とは、日本が占領中のこの島につけた名だ。
 この作品の主人公は、台湾出身で、日本人貿易商のもとで働いている。シンガポール防衛戦を戦い、東条英機暗殺未遂事件にも奇妙なかたちで関わってしまうのだ。
 もちろんモデルは、あのガイドさんだ。

第5回 取材としての裁判傍聴

 取材として、刑事事件の裁判をこれまでいろいろ傍聴してきた。
 わたしは法廷小説を専門としてはいないけれど、生の世相認識のためには裁判傍聴がじつに効果的だと、あるとき気づいたのだ。あまり報道されなかった事件が気になって、公判に通ったこともある。するとマスメディアを通した場合よりもはるかに深く多面的に、その事件を知ることができる。
 最初に傍聴したのは、ある経済事件で、このときは事件そのものに興味があった。まだ裁判員制度が導入される前のことだ。ほぼ毎月一回、東京地裁の公判を聴いていて、その都度、これはとことんバブルの時代を象徴するような事件だなと感じたものだった。被告を中心に、関係者たちの「カネ」と「女」への妄執は、わたしのそれまでの人生では身近に見たことがないものだった。
 勉強したという気持ちにはなったが、けっきょくこの事件を作品化することはあきらめた。経済犯罪は、わたしにとって執筆意欲をかきたててくれる題材ではなかった。
 その裁判でこんなことがあった。証人として呼ばれた男が証言したのだ。
「はい、××があったとき、そこには(被告を指さし)そのひとがいました」
 裁判長は苦虫を噛みつぶしたような顔となり、書記に言った。
「いまのは、わたしが証人に、そのとき現場にいたひとは、この法廷にもいますかと質問したら被告を指差した、と記録してください」
 おいおい、証言をシナリオに合わせて記録とするのかいと、その裁判のありように失望した。わたしが傍聴してきた裁判は、儀式にすぎなかったと知ったのだった。
 でも裁判員制度が導入されてから、裁判の傍聴は面白いという声を聞くようになった。陪審員制度のある国での裁判のように、検察と弁護側双方が裁判員たちに向かって、いわばプレゼンテーションをするように真剣に説得にかかるらしい。裁判員たちが相手の説得だから、裁判所があらかじめシナリオなど作ったところで、意味もなくなるだろう。
 そのころにはアメリカの法廷ものテレビ・ドラマをよく観るようになっていた。これからであれば、あのように丁々発止の法廷シーンのある小説が書けるのかもしれないと思い、また裁判を傍聴するようになった。
 裁判員制度のもとでの裁判を傍聴するようになって、不謹慎な書き方になるが、日本の裁判も十分にアメリカの法廷ドラマのようなエンターテインメントになるとわかった。何より、検察官や弁護人の役割が違ってきていた。双方ともに、儀式の列席者や出演者ではなくて、狭いコートの中で戦う競技者という印象になってきていたのだ。
 ある公判では、検察側証人尋問の際に、弁護士が異議を矢継ぎ早に申し立てたことがあった。傍聴席から見ていた印象では、被告を追い詰めようとする検察官のパフォーマンスが過ぎたのだ。その異議を判事はすべて認め、それまで検察側がやや有利かと見えていた公判が、逆転した、と感じられたことがあった。いいか悪いかは別としても、今日の日本の裁判が持つようになった「劇場性」を強く感じた傍聴となった。
 判決にどうしても納得のいかない裁判もあった。刑事事件の被告ふたりが別々に裁かれた事件を傍聴したのだ。わたしが通ったのは、当日になってから事件に引きずりこまれた青年のほうの公判だ。判決が下した彼への量刑は、明らかに主犯と判断できる者よりも重いものだった。検察側が申請した証人たちが、揃いも揃っていかがわしいという裁判でもあった。被告は控訴しなかったけれど、わたしはいまでも気になっている。
 この事件は小説の題材とはしていないけれども、次にもし法廷小説を書くとすれば、これは候補のひとつだ。

第4回 アメリカ中西部ドライブ取材

 いわゆるバブル景気のころは、伝統的な小説雑誌からだけではなく、グラビア雑誌やファッション系の雑誌などからも、ときどき寄稿依頼があった。そうした雑誌からの依頼は、企画が面白く、取材にも時間をかけられるものが多かった。
 おかげでいくつか、なかなかできない取材旅行と、その旅行をもとにした小説やノンフィクションを書くことができた。
 一九九〇年の秋には、わたしはアメリカの中西部をおよそ二ヶ月かけて自動車で取材旅行している。主にこのときの体験をもとに書いた短編集が『サンクスギビング・ママ』(スイッチ・コーポレーション)だ。
 最初の打ち合わせのとき、編集さんは一冊の本を持参してきた。アメリカの劇作家・俳優であるサム・シェパードの『モーテル・クロニクルズ』だ。エッセイ集とも言えるし、自伝的な回想もあり、詩も収められていて、テキスト一篇ごとに場所と日付が記されている。移動しながらメモが取られたという体裁の本だ。
 編集さんは、自分はこの本がとても好きなのだと言ったあとに、続けた。
「アメリカを自動車旅行して、そのときに見聞きしたことを、書き留めてきてほしいんです。ノートだけじゃなく、食堂の紙ナプキンに書くこともあるでしょう。帰国してから、それらのメモをもとに作品を書き、一冊の本にまとめるというのはいかがですか?」
 そのとき『モーテル・クロニクルズ』は未読だったけれど、編集さんの話す構想はなんとも魅力的に思えた。
 さっそくその旅行を中味を打ち合わせた。当時妹の家族がシカゴ郊外に住んでいた。小さな甥と姪がいる。その家族を訪ねることが、まず旅行の目的。ハロウィンのその日に、妹の家のベルを鳴らす。
 ロサンジェルスからレンタカーで出発し、西海岸を回ったあとシカゴに向かう。シカゴからは往路よりも南寄りの道路を使ってまたロサンジェルスに帰ってくる。
 期間はおよそ二ヶ月。宿泊の予定は立てない。気が向いたらルートからそれるし、気に入った土地があれば沈没するでもいい。ワープロを持参して、旅行の途中で別の雑誌の原稿を一本書くことになる。
 そうして出発してからほぼ一カ月、西海岸で寄り道し過ぎたのと、自分が一日にドライブできる距離の見通しが甘くて、ハロウィン当日のシカゴ着は難しくなってきた。遅れを取り戻そうと、その数日はかなりの距離を走り、疲れていた。
 その日、アイオワ州を走っていて日も暮れた。そろそろ宿に落ち着かねばならない。名も知らない小都市でフリーウェイを降り、モーテルが並ぶ通りへと折れた。
 このとき赤信号を見落とし、直進してきた車のすぐ前を横切ってしまった。その車と接触してわたしのレンタカーははね飛び、道路脇の広告ポールにぶつかって停まった。さいわい相手にも自分にも怪我はなかったけれど、わたしはやってきたパトカーの後部席に乗せられ、警察署で事情聴取を受けた。
 警察は地元の弁護士を呼んでくれた。
 若い親切な弁護士は言う。
「来週水曜日に、巡回判事がやってきます。あなたはそこで無罪を主張することもできますが、わたしはいま有罪を認めることをお勧めします」
 罰金はさほどの金額ではなかった。相手方の損害については、保険がきく。
 アメリカの裁判を受ければそれも取材になるとは思った。でも時間がもったいない。
「おっしゃるとおりにします」
 翌日、レンタカーの営業所から新しい車で再び出発。妹家族の家に着いたのは、ハロウィンの翌日だった。
 書くための旅だったけれど、あの交通事故の顛末はお粗末過ぎて、作品にはしていない。

第3回 危険な街の取材

 自分の小説の題材に、冒険とか歴史上の事件などをよく選んできた。
 となると、取材に出かける先は、歴史ある都市とか、軍事衝突とか戦争の舞台となった場所などが多くなる。そういった土地は、歴史がドラマティックであるだけではなく、しばしばいまその瞬間にも何かしら鋭い政治的対立があったり、紛争が起こっている。
 平和な南国の島とか高原のリゾート地などにも憧れるけれど、そこに行くことは取材というよりは、気晴らしであり骨休めだ。旅行の優先度は低くなる。だからたとえハワイに行ったとしても、わたしが向かうのはワイキキ・ビーチではなくて、真珠湾のほうだ。
 もちろん、戦場や、治安がひどく悪い土地に、無理に行ったりはしない。安全にひとりで歩き回ることができないのであれば、そこへの取材はあきらめる。
 ただ、事前に得た情報が古くて、行った土地の治安が想像以上に悪かったということはある。マルコス政権末期のフィリピン、マニラがそうだった。
 そのマニラで、つい判断を誤った。真っ昼間、オフィス街で三人組に狙われ、現金を巻き上げられたのだ。ここで「強盗に遭った」と書かないのは、彼らも微妙にあからさまな犯罪となる手口を使ってこなかったせいだ。「ガイドしてやる」とわたしを囲んで一緒に歩き、周囲のビルの名前などを大きな声で言いつつ、手は出さず、ナイフを持ち出したりもしない。
 三人組の中には、脅しが専門の見るからに凶悪そうな男が混じっていて、この男はどこかにナイフを隠していそうな雰囲気があった。ボス格の男と凶悪そうな男は、片言の日本語を話した。
 大きなホテルの前まで来たとき、わたしは「ガイドありがとう」と礼を言って、そこに逃げ込んだ。でも、ショットガンを抱えたホテルのガードマンは、その連中も入れてしまう。しかたなく喫茶店に入ると、彼らも同じテーブルの椅子に腰掛ける。わたしはコーヒーを注文し、頃合いを見てみなの分のコーヒー代も支払うと、もう一度礼を言い、席を立った。でも連中は追いかけてくる。
 わたしはロビーを抜け、ホテルの車寄せに停まっていたタクシーに飛び乗った。彼らはタクシーが発進する前に、わたしをシートの奥に押し込めるように乗り込んできた。親分格の男はまず運転手に黙っていろと(たぶん)脅し、要求してきた。
「案内をしてやったんだから、ガイド料をよこせ」
日本円で二万だという。タクシーの窓越しにガードマン見たけれども、不審げな顔を向けてくるだけで、助け出してくれない。
 わたしはポーチから財布を取り出し、そのまま渡してやった。物騒な街を歩くのに、多額の現金を身につけたりはしない。財布には二、三十ドル分ほどのフィリピン・ペソが入っていたが、ボスは受け取らなかった。
「お前のホテルに行け。部屋にもっと現金が置いてあるんだろう?」
 宿泊しているホテルを知られることになるが、カネを支払わなければ、何をされるかわからない恐怖がある。
「わかった。ホテルに行ってくれ。二万円払う」と、わたしは運転手にホテルの名を告げたのだった。
 ホテルに着くとボスは、敷地の外で待つから持ってこいと言う。わたしは部屋に置いてあった日本円を持って一階に降り、彼らに渡してやった。領収書はもらえなかった。
 このときの取材と体験をもとに、わたしはフィリピン進出の日本企業を題材にした犯罪小説を書いた。連中も登場する。「サンタマリーア」(お陀仏だ)が口癖の男は、このときのボスをモデルにしている。主人公に散弾銃で撃たれて死ぬのだ。
 二万円は、たぶん取り返せたのだろう。

第2回 「年寄りに聞いてみる」

 歴史を題材にするとき、その舞台となった土地を可能な限り訪ねる。たとえば函館、長崎、浦賀、伊豆・韮山。設楽原や近江の各地。あるいは上海、ベルリン、アムステルダム……。場所によっては、何度も繰り返し行く。
 現地に立つことで、その歴史的局面の描写に確信が持てるようになるし、伝えられていることが史実そのままなのか、後世に脚色されたものか、判別することもできる。奇妙に思えていた史実が、現地を見ることで解釈が可能となることもある。
 奥州藤原氏と奥州合戦を題材にしたときは、舞台となる土地を何度かに分けて旅行した。福島から平泉、盛岡、青森南部地方などの、この歴史に関係する土地をだ。
 福島県国見町の阿津賀志山東山麓は、奥州藤原氏と、奥州に攻め込んだ源頼朝の大軍勢が激突した古戦場である。また藤原氏が本陣を置いた砦をめぐっては、頼朝側の少数部隊が一度、山側から奇襲攻撃をかけている。このとき砦の城門の前で繰り広げられた戦闘は、伝承ではじつに中世的な様式にのっとったものだった。
 構想していた作品では、この合戦や砦の城門前での戦闘が作品のクライマックスとなる。
 ところが取材当時(二〇〇三年)、この阿津賀志山の古戦場一帯は、史跡としてはさほど有名ではなかった。あまり情報がない。
 下調べでは、藤原氏側が築いた巨大な空濠、土塁などの防塁は残っているとわかった。ただ、本陣のあった砦の位置が、史料と国土地理院の二万五千分の一の地図を照らし合わせていっても特定できない。その場所について記された近年の資料もない。
 大木戸、という行政上の地名が残っているから、砦があったのはその地区のどこか、とまではわかる。ならば、いまは農地の下になっているかもしれないが、とにかく現地に行けば、少なくとも城門のあった場所はピンポイントで推定できるだろう。国見町には、そのような期待で取材旅行に出たのだった。
 JR藤田駅前でタクシーに乗り、阿津賀志山の合戦に関係する場所を案内してほしいとタクシー・ドライバーに頼んだ。ドライバーは、空濠、土塁についてはよく知っているとのことだった。
 わたしは気になっている点を訊ねた。
「大木戸という地区がありますね」
「ああ、あるよ」
「そこの砦でも戦いがあったそうなんです。その砦と城門の跡に行きたいんですが、場所はどこかわかりますか?」
 タクシードライバーは言った。
「おれはわからないけど、年寄りに聞いてやる。そっちはいつごろの話さ」
 同じ阿津賀志山の戦いのエピソードのひとつなのだが、あまり軽い調子で訊き返されたので、わたしも軽い調子で答えてしまった。
「八百年ぐらい昔ですが」
 タクシー・ドライバーは絶句してから、申し訳なさそうに言った。
「それくらい昔だと、知ってるひとは少ないかもしれないな」
 もちろん、詳しいことはともかく、そうと伝えられている場所がどこかだけわかればいいのだが。
 けっきょく砦とその城門のあった位置は、地元のひとに聞いてもらっても明確にはわからなかった。ただしいまは、その場所に案内板が立っているようだ。
 あとになってから、あのドライバーが思いついた「年寄り」は、いったいいくつぐらいのひとだったのかと考えると、いつもなんとなく微笑してしまう。
 もしかすると、地元のひとたちにとっては、奥州合戦はごく身近な過去の事件として意識されているのかもしれない。そして逆に砦の城門前での戦闘は、わたしのような偏った歴史好き以外には、さして知られていない歴史の一挿話ということだったのだろう。

第一回 ワルシャワで飲んだビール


 わたしの同業の先輩には、某大学探検部出身者がふたりいる。ふたりとも外国を舞台にした作品が多く、現地描写のリアルさや現地情報の豊かさで人気のある小説家たちだ。いや、ひとりは先年亡くなったが。
 ふたりの取材旅行への、とくに外国取材への情熱にはいつも感嘆させられたものだった。あるとき、それぞれに行ったことのある国の数を訊いたことがある。三十年ほど前のことだ。ひとりは、国連加盟国は全部行っているという。もうひとりは、アフリカで数カ国行っていない国があると答えた。
 その数にも驚くが、ふたりが行ったことのある国の中には、戦争中であったり、内戦下の国も含まれていたはずだ。かなわないと思いつつ、ふたりの取材旅行のノウハウなどを熱心に聞いたものだった。
 わたしは、あの先輩たちとはまったく逆の完全にインドア型作家であり、ステイホームが苦にならない質の人間である。ただ、仕事では、取材旅行は資料を読むことと同じ程度に重要な一部分であり、小説を書き出してから四十年以上も経ったいまでは、それなりに国内国外どちらにも取材の体験は蓄積されてきたなと思うようになっている。
 あの先輩たちにならった取材旅行の楽しみのひとつは、取材先でその地元のお酒を飲むことだ。そこがビール文化圏であれば、入った酒場でその土地のビールを注文する。
 忘れられないビールがある。一九九〇年の夏、民主化直後のポーランドのワルシャワの酒場で飲んだローカル・ビールだ。
 カウンターについて、バーテンダーに地元のビールを注文した。以下のやりとりは英語。
 バーテンダーは言う。
「チェコのビールがある。値段は同じだ。そっちにしないか」
 とは言われても、旅先ではその土地のビール、という楽しみを放棄したくなかった。
「いや、ぜひ地元のビールを」
 カウンターの両側にいる男たちが、にやにやしている。
 ジョッキで出てきたビールをひとくち飲んだ。言葉を失う味だった。何か食品を茹でるのに失敗あとの上澄みのような味、とでも言ったらいいか。
 両隣りの客もバーテンダーも、愉快そうにわたしの反応を見つめている。
「どうだ?」とバーテンダー。
「おいしい」
 わたしは感動したふりを装い、残りも勢いよく空けてしまった。
 バーテンダーが訊いた。
「もう一杯?」
「十分です。次はチェコのビールを」
 両隣りの客たちが、クックッと笑った。
 いまだに何かの拍子でワルシャワを思い出したとき、あのビールの味が頭によみがえる。一九九〇年の東欧取材旅行に関して、もっとも多く友人たちに語った土産話だ。